かわせみのさえずり

記録のためのノートがわりに執筆しています。

武漢肺炎(新型コロナウイルス感染症)に対する世間の見方と私の考え

始めに

 

新型コロナウイルス感染症について20201月の段階で大手メディアなどでは「武漢肺炎」と呼ばれていたと記憶している。(https://www.nikkei.com/article/DGXLASFL28HA0_Y0A120C2000000/)しかしその後、「武漢」という地名を使うのは良くないということで「コロナ」と呼ぶようになった。しかしながらしばらくして変異株の話題が出た時に大手メディアは何と呼んだか。呆れることに「イギリス型」だの「インド型」だの地名を使って堂々と呼んでいたのだ。このことから日本のメディアがいかにどこかの国に忖度しているかがわかる。よって私は「コロナ」のことを「流行り病(はやりやまい)」もしくは「武漢肺炎」と呼ぶことにしている。このことをご理解頂きたい。

 

 

 

武漢肺炎に対する思考過程」

 

1武漢肺炎の危険性について意見の相違がある事。(そもそもウイルスなどについて人間が対抗していくものであるという考えに懐疑的であるなど)

 

21の考え方に基づいて生活する。1()の考えに基づいて行動する場合武漢肺炎認知後も行動の変化はない。

 

31の考え方がワクチンを摂取するかどうかの基礎になる。

 

4、ワクチンについての考え方。(新しい種類のワクチンであることや、そもそもワクチンを打つことに対して懐疑的であるなど)

 

 

 

「私が感じてきたこととそれを共有する意義」

 

 武漢肺炎を認知した20201月中旬はまだ情報が少なくその危険性について判断不能であった。同年2月には危険性についてはわからないがとにかくマスクをしようとしていた。同年38月までは武漢肺炎の感染経路やそれをどう防ぐのかという考えであった。78月、猛暑日が続く中私はマスクをしながら外を歩いており、熱中症になるリスクの方が高い、もとより外でマスクをすることの意味を見出せなかったため外にいる時はマスクを外していた。今思い出したがその当時から室内であってもマスクをすることの意味がないと感じていた。一般にマスクをする意味を問われればおそらく飛沫を飛ばさないためであろう。その立場に立ってみれば確かに会話や咳、くしゃみなどをした時にマスクをしていない時と比べて飛沫が飛ばないというのは理解できる。しかしそれは完全ではないし、さらに飛沫は時間と共に乾燥していき飛沫という比較的大きなものに内在していたウイルスがマスクの繊維を抜け出し、マスク自体がウイルスを常時吹き出す装置になってしまうということだ。さらに一般人がマスクを正しく使用できるとは到底思わない。鼻を出している人、顎にかけている人、マスクの外側を触る人などなど、、、 到底マスクが効果を発揮してるとは思えない光景を散々見てきた私からすればマスクをすればするほど感染するのではないかと思えるほどである。であるのにマスクをするものには人権がありそうでないものには人権がない。何と愚劣な空気なのだろうか。何とも耐え難いこの陰湿な空気を感じずにはいられない。いったい何をしたというのだ。同年9月。私は大きな環境の変化によって人と関わることがめっきり減った。

 2021年ワクチンの話が舞い込んできた。記憶が曖昧な部分があるが、日本で最初にワクチンを受けたのは高齢者と医療従事者であった。私はこのワクチンに関しても懐疑的である。新しい種類のワクチン。それはmRNAを体内に取り込んで遺伝子レベルから抗体となるタンパク質を作り出すというものである。今まで広く普及してきたワクチンは不活性化させた病原体を体内に取り込んで抗体を作るものであり極めて自然なものであると考える。私は新しいワクチンについて得る情報の中で注目しているのは死亡リスクである。そのリスクと武漢肺炎に罹患して死ぬリスクを比較し、武漢肺炎に罹患して死亡するリスクの方が高ければ摂取することをほんの少し、ほんの少しだけ考えてもいいが(実際死亡率が逆であっても打たないが)、実際の数字を見ればその考慮すら必要のないものである。そして私は今19歳であるが2021818日現在までに武漢肺炎で死亡した十代のものはいないという事実を見ればワクチンを打つ必要が皆無であることがわかるだろう。何もマスクをせずともである。なぜなら武漢肺炎に罹患したとしても死なないのであるから。この事実を分かっていながらメディアや自治体が若者にワクチンを打つよう促している状況に非常に危機感を感じている。私と同じような考えになる必要はない。しかし少なくとも様々なことを考えた上で、打つと決断したのならば百歩譲って構わないが、そうではなく周りが打っているからとか親に打てと言われたからなどで打つなどありえない。ましてや会社での圧力など言語道断である。政府では今ワクチンパスポートなるものを提案しているようだが、くれぐれも基本的人権の尊重を無視してはいけない。繰り返しになるがマスクについても同様だ。社会自体が矛盾しているところにそれを正そうとしても矛盾が正しくなっている社会ではかなりの勇気と根気が必要になるということも加えておきたい。

 最後に私が考えていたことの変遷と今の考えを書くことの意義について書きたい。それはこの社会の矛盾とそれに対抗してきた人たちの絶望、苦闘を慮るとともにその勇気を讃えたいのである。どれほどまでに精神をすり減らしてきたか。やはりこの社会は異常でありこれからも異常であり続けるのだろう。けれどここにそれを認知し生きていこうとするものがこの事実を共有した時、少しずつ変化が現れることを期待したいのである。


新型コロナウイルス #武漢肺炎